第五講 仏教と儒教-4
 では、江戸時代以降は仏教が日本人の葬式を担当し、儒教が日本人の道徳を担当したのか。事実はそのように単純ではない。「葬式仏教」と呼ばれた日本仏教は儒教の影響を強く受けているのである。それも学問としての儒学ではなく、宗教としての儒教の影響を受けている。
 加地伸行氏によれば、葬儀とは死と死後についての説明を儀式という「形」にしたものである。日本の一般的な葬儀のときの祭壇を見ると、柩を置き、白木の位牌を立て、故人の写真を添える。それは事実上は故人のための設営である。彫像であれ絵像であれ、仏教者として拝すべき最も大切な本尊は、一番奥にあたかも飾り物のような置かれているだけだ。名号なら掛けられているだけだが、それさえ、ときには柩や祭壇に隠れてほとんど見えないこともある。いったい、葬儀の参列者の何人が本尊に対して祈りを捧げ、死者を輪廻転生の苦しみから救ってほしいと願っているのだろうか。参列者のほとんどは本尊を拝まず、故人の柩を、位牌を、特に写真を拝んでいる。それは亡き人を思うことであり、加地氏によれば、日本の仏式葬儀では儒教の「招魂再生」をしているのである。
 また、位牌のルーツも仏教ではなく、儒教である。位牌というと、故人の戒名を書いて立てるものとして用いられているため、日本人の多くは仏教の習慣だと信じている。しかし、仏教には本来、位牌を用いるという習慣はないのである。作家の井沢元彦氏は『神道・仏教・儒教 集中講座』で次のように述べている。
 「よく考えてみればわかることなのですが、仏教は輪廻転生が基本ですから、故人の特定の魂が、例えばヤマトタケルならヤマトタケルが、そのままのかたちでずっと残っているはずがないのです。魂は、輪廻転生によって生まれ変わっているからです。
 ところが古代中国には、人間の魂は死んだあとも不滅で、しかも、その人間の個性が失われないまま残るという信仰がありました。輪廻転生も魂は不滅だというのは同じですが、虫や魚などの他の生き物になることもあれば、全く別の人間になってしまうこともあります。そしてその際、前世の記憶をなくしてしまうのが普通です」
 そのように古代中国の霊魂不滅説は輪廻転生説とは根本的に異なるものであり、それを象徴しているのが「位牌」なのである。もともと儒教は「原儒」と呼ばれた葬祭業者の集団がルーツとなっているが、彼らが強調したのは「死者の魂は生きており、先祖として私たちを見守ってくれている」という考え方だった。その考えが凝縮されたものこそ、位牌に他ならないのである。葬儀のときに位牌を立てるというのは、もともと儒教に基づく葬儀に用いられた木主を立てるという習慣が日本に伝わったせいなのだ。
 墓も同様である。「空」を唱える仏教の考えでは本来、墓というものは不要だが、儒教においては重要である。儒教文化圏の人々は、遺体を残すことに以上にこだわる。なぜなら、遺体にせよ遺骨にせよ、何か形となるものを残しておかなければ、招魂再生のときに困るからである。その意味で、死者の霊魂が憑依する位牌や墓とは、樹木や岩石に神霊が乗り移るという神道の「依代(よりしろ)」にきわめて近い。彼岸の仏をリアルな存在として、この世をバーチャルな虚仮世界と見る仏教にはありえない発想なのである。
 さらには、盆の行事も、やはり儒教の祖先祭祀である。というのは、輪廻転生を本当に信じているならば、故人の魂が死後どこに行こうと、そんなことを気にする必要がないはずである。にもかかわらず気にして救おうとするのは、やはり祖先祭祀という儒教的発想がそこには存在するのである。なお、三回忌の期間も仏教ではなく、儒教から来たものである。
 恐るべし儒教。儒教ほど、人間の死と死後について豊かに説明してくれる宗教はなく、それは他宗教である仏教の死者儀礼の深奥にまで沈潜していたのだ。「葬」とは、死者と生者との関わり合いの問題である。どんな民族の歴史意識や民族意識の中には「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根にあると言える。二〇世紀の文豪とも呼べるアーサー・C・クラークは、SFの最高傑作として名高い『二00一年宇宙の旅』の「まえがき」に次のように書いた。
 「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、三0人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した」
 この数字が正しいかどうか知らないし、またその必要もないが、問題なのは私たちの側には数多くの死者たちが存在し、私たちは死者たちに支えられて生きているという事実である。独居老人をはじめ、多くの人々が孤独な死を迎えている今日、現代人に最も必要なのは死者たちをも含めた大きく深いエコロジー、つまり「魂のエコロジー」ではないだろうか。そして、それを最もよく形として示してくれる宗教こそ儒教なのだと思う。
 現代の日本人は、単なる倫理道徳の儒学との混同から卒業し、奥深く豊かな儒教の精神世界に一刻も早く気づくべきである。
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