思想篇
第六講

読書の効用、教養としての読書

キーワードとしての「教養」

読書の最大の効用とは、金儲けではなく、心を豊かにすることです。そこで、「教養」がキーワードになってきます。

ドラッカーは、21世紀社会は知識社会であると述べました。たしかにその通りでしょう。

しかし、一般に考えられている知識社会の「知識」は、ネット検索で拾えるような「情報」に近いニュアンスです。本当の「知識」とは、「教養」につながるものでなければなりません。

福沢諭吉の「心訓七則」には「世の中で一番みじめなことは、教養のないことである」という言葉が登場します。

安岡正篤によれば、中国の歴史では『三国志』が面白く、日本の歴史では幕末維新の話が面白いそうです。

なぜ面白いかというと、その前の時代である後漢200年と徳川270年が世界史でも最高の文治社会だったために、登場人物がすべて一流の教養人であり、彼らの言葉のやりとりにすべて含蓄があり教養があるからだそうです。

後漢の初代光武帝は「天下いまだ平らかならざるにすでに文治の志あり」と言われた人です。彼は学問を大いに奨励したのみならず、全国にすぐれた学者や賢人を求めて政府に登用しました。そのために、『後漢書』は教養書として後世珍重されたのです。

日本の江戸時代もまた、大坂城落城の後は武をもって立つ道が閉ざされたため、学問だけが出世の道となりました。どんな貧しい書生でも勉強さえすれば、新井白石や荻生徂徠のように国の政治をあずかる立場にも立てる社会だったのです。だから、若者の知識への貪欲さはその後の時代とは大きく違いました。

江戸時代といえば、「江戸しぐさ」です。

江戸の町衆の間に広まった思いやりの作法ですが、そのキーワードに「お心肥」があります。

まさに江戸っ子の神髄を示している非常に含蓄のある江戸言葉のひとつです。その意味は、頭の中を豊かにして、教養をつけるといった意味です。ただし、江戸っ子のいう教養とは「読み書き算盤」だけのことではありません。

本を読むことは、もちろん重要です。実際、彼らは『論語』をはじめとした儒学の本をよく読みました。でも、それだけでは足りません。

実際に体験し、自分で考えて、初めてその人の教養になるのです。人間はおいしいものを食べて身体を肥やすことばかりになりがちですが、それではいけません。立派な商人として大成するためには人格を磨き、教要を見につけること、すなわち心を肥やすことが大切なのです。

インテリジェンスには、色々な種類があります。学者のインテリジェンスもあれば、政治家や経営者のインテリジェンスもある。冒険家のインテリジェンスもあれば、お笑い芸人のインテリジェンスもある。けっして、インテリジェンスというものは画一的なものではありません。

しかし、すべての人々に必要とされるものこそ、「心のインテリジェンス」であり、より具体的に言えば、「人間関係のインテリジェンス」ではないでしょうか。

つまり、他人に対して気持ち良く挨拶やお辞儀ができる。相手に思いやりのある言葉をかけ、楽しい会話を持つことができる。これは、「マネジメントとは、つまるところ一般教養のことである」というドラッカーの言葉にも通じます。

マネジメントとは、人間関係のインテリジェンスに関わるものだからです。

江戸しぐさには、「うかつあやまり」というものがあります。

たとえば、私が住む北九州周辺のJR車内で、若者が中年の男性の足を踏んだとします。中年が「こら、痛かろうが!」と怒鳴れば、若者も「おっさん、電車が揺れたんやから、仕方なかろうが!」とやり返す。これでは必ず喧嘩になってしまいますね。

では、足を踏まれたとき、どうするか。

踏んだ方があやまるのは当然ですが、踏まれた方も「私も、うかつでした」と謝るのが江戸しぐさです。

こうすれば、絶対に角が立たず、トラブルになりようがありません。これなど、最高級のインテリジェンスを感じますね。

「私も、うかつでした」と謝ることができる人は大人であり、インテリジェンスのある人なのです。

私の言う「人間関係のインテリジェンス」とは、そういうことです。読書という営みは、「人間関係のインテリジェンス」につながるべきだと思います。

元駐タイ大使で岡崎研究所所長の岡崎久彦氏によれば、明治の指導者と昭和初期の指導者の間にはある種の断絶があるといいます。

そして、明治以降で本当の教養を備えた人物として、福沢諭吉、西郷隆盛、勝海舟、陸奥宗光、安岡正篤の5人の名をあげています。

教養は人間的魅力ともなります。かのユリウス・カエサルは古代ローマの借金王でしたが、その原因の1つは、自身の書籍代だったそうです。

当時の知識人ナンバーワンは哲学者のキケロと衆目一致していましたが、その彼もカエサルの読書量には一目置きました。

当時の書物は、高価なパピルス紙に筆写した巻物でした。

当然ながら高価であり、それを経済力のない若い頃から大量に手に入れたため、借金の額も大きくなっていったのです。

カエサルは貪欲に知識を求めたのであり、当然、豊かな教養を身につけていたに違いありません。

人類史上最も人気者の1人と言われる彼の魅力の一端に、その豊かな教養があったことは疑いもないでしょう。

私は、教養こそは、あの世にも持っていける真の富だと確信しています。

あの丹波哲郎さんは80歳を過ぎてからパソコンを学びはじめました。

ドラッカーは96歳を目前にしてこの世を去るまで、『シェークスピア全集』と『ギリシャ悲劇全集』を何度も読み返していたそうです。

死が近くても、教養を身につけるための勉強が必要なのです。

モノをじっくり考えるためには、知識とボキャブラーが求められます。知識や言葉がないと考えは組み立てられません。死んだら、人は魂だけの存在になります。そのとき、学んだ知識が生きてくるのです。

そのためにも、人は死ぬまで学び続けなければなりません。現金も有価証券も不動産も宝石もあの世には持っていけません。それらは、しょせん、この世だけの「仮の富」です。教養こそが、この世でもあの世でも価値のある「真の富」なのです。