思想篇
第五講

「死ぬのだって怖くなくなる」癒す読書

最前線の命がけの読書

安岡正篤が面白い話をしています。先の戦争中、陣営の中で真剣に読書・思索したという青年たちも少なくありませんでした。そういう人々の体験によると、上海とか北京とかの都会にいるときまでは、小説とか新聞や雑誌とかで暇をまぎらわしているのですが、だんだん前線に行くにしたがって、そういったものはほとんど読めなくなってくるそうです。

なぜ読めないか? 馬鹿馬鹿しくて読めないそうなのです。まして、もう命がけの最前線に出て、敵に直面し、砲声を聞きながら野営するというときなど、雑誌や三文小説などを読んでいる人はおらず、『論語』とか『聖書』とか真剣な読書でないとおさまらないというのです。

つまり、人間は真剣になると、くだらないもの、浅はかなものなど嫌になるというのです。本当に命のこもった、尊い本でなければ身にこたえないというのです。

この話を知ってからは、私は別に戦争状態でなくとも、平時から真剣な読書に努めたいと思うようになりました。

本から得た知識は、死後も存続する?

先の戦争中、青年たちが読書をしていたのにはもう1つの理由があります。

本には心を癒す力、不安を押さえる力があると思います。

人間にとって最大の不安は死。死んでみないとわからないが、何度も死ぬわけにはいかないから、人間は死を知らないし、恐怖を持っています。死について書かれた本を読むとか、愛する人を亡くした人、そういう本を読んで死について考えれば考えるほど、逆に死が怖くなくなるというのが私の実感です。

精神を自由にするものといえば哲学・芸術・宗教などが思い浮かびますが、その究極は「死」です。じつは、私は本を読むことによって、「死」が怖くなくなるのではないかと考えています。

「千の風になって」「おくりびと」・・・日本人は、いまや「死」を直視しはじめました。

誰でも、死ぬのは怖い。しかし、「死」について書かれた本を読むことで、ある程度、「死」の恐怖は軽減されます。

あえて意識的に「死」を考えることによって、「死」は主観から客観へとシフトし、自らの「死」を距離を置いて見ることができるのです。

人間にとって最大の不安は「死」にほかなりません。その正体がわからないがゆえ、人間は「死」に対して限りない恐怖を感じています。

だれでも、死ぬのは怖い。しかし、「死」について書かれた本を読むことで、ある程度、その恐怖は軽減されます。

あえて意識的に「死」を考えることによって、「死」は主観から客観へとシフトし、自分らの「死」を距離を置いて見ることができるのです。

わたしは、読書した本から得た知識や感動は、死後も存続すると本気で思っています。

人類の歴史の中で、ゲーテほど多くのことについて語り、またそれが後世に残されている人間はいないとされているそうですが、彼は歳をとるとともに「死」や「死後の世界」を意識し、霊魂不滅の考えを語るようになりました。

『ゲーテとの対話』では、エッカーマンに対して次のように語っています。

「私にとって、霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくる。なぜなら、私が人生の終焉まで休みなく活動し、私の現在の精神がもはやもちこたえられないときには、自然は私の別の生存の形式を与えてくれるはずだから」(木原武一訳)

これほど、読書するわたしを勇気づけてくれる言葉はありません。


死の不安を取り除く本


さて、「癒し」の読書とは何か。「癒し」というのは、まず人間の持つ不安と深く関わっています。心の奥底の大きな不安を取り除く読書が「癒し」の読書です。

人間にとっての最大の不安は、自分が死ぬことです。人間は必ず死にます。では、人間は死ぬとどうなるのか。死後、どんな世界に行くのか。これは素朴にして、人間にとってもっとも根本的な問題です。人類の文明が誕生して以来、わたしたちの先祖はその叡知の多くを傾けて、このテーマに取り組んできました。

それでも、現在にいたるまで人間は死に続けています。「死」の正体もよくわかっていません。実際に「死」を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然でしょう。まさに「死」こそは人類にとって最大のミステリーであり、個人にとって最大の不安なのです。

それらの不安を取り除く本が、古来よりたくさん書かれてきました。死後の世界、あの世についての本です。

あの世を信じること、つまり「来世信仰」は、あらゆる時代や民族や文化を通じて、人類史上絶えることなく続いてきました。古代エジプトの『死者の書』の中には、永遠の生命に至る霊魂の旅がまるで観光ガイドブックのように克明に描かれています。

『聖書』や『コーラン』に代表される宗教書の多くは死後の世界について述べていますし、ブッダ自身は死後の世界を語りませんでしたが、仏教にも源信の『往生要集』などの「あの世の観光ガイドブック」がある。

なぜ死ぬのが怖いかというと、死んだらどうなるかがわからないから、つまり情報が決定的に不足しているからです。ですから、自分の信じる宗教でもスピリチュアルな本でもよいから、「死後の世界はこういう世界だ」というイメージが持てれば、死ぬことへの不安が消失することはないにせよ、少しはやわらぐはずです。

では、わたしの場合はどうか。

わたしは、あまり死ぬのが怖くありません。これは痩せ我慢でもなんでもありません。わたしは、儒教の本を読んでから死ぬのが怖くなりました。

死ぬということは、ふつうは生命を失うことだと考えられますが、2500年前の中国に、生命を不滅にするための方法を発明した人がいました。孔子です。彼は、なんど人間が死なないための方法を考え出したのです。その考えは、「孝」という一文字に集約されます。


孔子が説く人間の「つとめ」


「孝」とは何か。あらゆる人には祖先があり、多くの人には子孫がありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表されます。

すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。ですから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあるのです。

孔子の開いた儒教は、そこで次の3つのことを人間の「つとめ」として打ち出しました。

そして、この3つの「つとめ」を合わせたものこそが「孝」なのです。

「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしていますが、それは間違いです。死んでも、なつかしいこの世に再び帰ってくる「招魂再生」の死生観と結びついて生まれた観念が「孝」というものの正体なのです。これによって。古代中国の人々は死への恐怖をやわらげました。

なぜなら、「孝」があれば、人は死なないからです。

死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。また、先祖があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになる。

だとすると、現在生きているわたしたちにも、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒にともに生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。

これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということなのです。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。

この孔子にはじまる死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。

とくに、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」という考え方によく似ています。生物の肉体は1つの乗り物にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくといった考え方です。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次の肉体を残し、そこに乗り移るわけです。子は親のコピーなのです。

「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字どおり「遺した体」というのが「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。

とくに儒教学者である加地伸行氏の『儒教とは何か』(中公新書)や『沈黙の宗教―儒教』(ちくまライブラリー)を読んだことで以上のような「孝」の本当の意味を知り、それ以来、わたしは死ぬのが怖くなくなったのです。まさに「癒し」の読書といえるでしょう。