童話篇
第五講

星の王子さま

世界の四大ベストセラー

『星の王子さま』は、世界中の人々から愛されるファンタジーです。日本人の多くは子ども向けの本だと思っていますが、本当は大人のためのメッセージ・ブックです。

じつにさまざまなシンボルやメタファーに満ちており、子どもにはちょっとわかりにくいのではないでしょうか。わたしも、小学校3年生ぐらいで初めて読んだように記憶していますが、何か不思議な話だなとは思いつつも、この物語のメッセージをほとんど読み取ることができませんでした。

作者のサン=テグジュペリは1900年6月29日に生まれ、1944年7月31日に亡くなりました。44歳の生涯でした。ほぼ同時代人である日本の宮沢賢治は37歳で亡くなっていますから、賢治よりは長生きしたものの、やはり短い人生であったことに変わりはありません。夭折はたしかに人を神格化しますが、彼の名前が今でも不滅の輝きを放っているのは「若死に」のせいなどではありません。彼が残したメッセージが広く人類全体の心に響いたからです。

フランスの伝統ある貴族の家系に生まれたがゆえに名前に「Saunt(サン)」が冠されましたが、英語ではそれは「聖」を意味します。1940年、彼の友人だったチャールズ・リンドバーグの息子が母親に「この人、フランスの聖人なの?」とたずねたそうです。その前年にサン=テグジュペリと知り合ってすっかり彼に心酔していたリンドバーグ夫人は、「そうね、ある意味ではね」と笑いながら答えたそうです。しかし、それから3年後に書かれた『星の王子さま』によって、彼は本当に20世紀の聖人となったのでした。

それにしても、サン=テグジュペリという名前はちょっと長いですね。サンテックスは、彼の愛読者たちから「サンテックス」という少年時代の愛称で親しまれています。ここからは、わたしたちも彼をサンテックスと呼ぶことにしたいと思います。

サンテックスが死の直前に書いた『星の王子さま』は世界中の言語に翻訳され、信じられないほど多くの人々に読まれました。なんと、『聖書』や『資本論』に次いで人類に広く読まれた大ベストセラーであり、ロングセラーでもあります。これにイスラム教の啓典である『コーラン』を加えた4冊を、わたしは「世界の四大ベストセラー」と呼んでいます。『星の王子さま』とは、それほどすごい本なのです。

何度も繰り返しキリスト教徒は『聖書』を読み、イスラム教徒は『コーラン』を読みます。マルクス主義者にかかわらず、社会や経済や哲学に関心のある人は『資本論』を何度も読むでしょう。そして、それらの本は読むたびに新しい発見を与えてくれるといいます。優れた文学作品もまた同じ性格をもちます。ファンタジーの名作である『星の王子さま』は、まさにそんな何度も繰り返し読むべき本なのです。

「ほんとうのこと」しか知りたがらない王子さま

ある日、サハラ砂漠に飛行機で不時着した「ぼく」が出会った不思議な男の子。それは、小さな小さな自分の星をあとにして、いくつもの星をめぐってきた「星の王子さま」でした。七番目の星である地球にたどり着いた王子さまは、「ほんとうのこと」しか知りたがりませんでした。質問ばかりを繰り返す王子さまと「ぼく」の交流は、はじめおかしくやがて哀しいといった常套句そのままに、次第に哀切感を増していきます。

この哀切感が作品の執筆背景とかかわっていることは有名です。当時、作者サン=テグジュペリの母国フランスはナチス・ドイツの占領下にありました。彼は亡命先の空軍パイロットとして戦争に参加する立場だったのです。『星の王子さま』は、故国に残してきたユダヤ人の親友レオン・ウェルトの身を案じる思いから、彼を励ます目的で書かれたとされています。

この物語をよく読むと、当時の国際情勢のメタファーが随所に描かれています。たとえば、冒頭に出てくる有名な絵は、だれもが「帽子」と思いますが、本当はゾウを飲み込んだウワバミです。「ぼく」は、6歳のときに『ほんとうにあった話』という本で、14の獣を飲み込もうとしているウワバミの絵を見たことがあったのです。その本には、このように書かれていました。

「ウワバミというものは、そのえじきをかまずに、まるごと、ペロリとのみこむ。すると、もう動けなくなって、半年のあいだ、ねむっているが、そのあいだに、のみこんだけもの(傍点)が、腹のなかでこなれる(傍点)のである」(内藤濯訳。以下同じ)

この半年という期間について、塚崎幹夫氏が『星の王子さまの世界』(中公新書)で興味深い分析をしています。すなわち、

1937年7月7日盧溝橋事件。日本、中国侵略戦争を開始
1938年3月10日ドイツ、オーストリアを侵略併合
1938年9月29・30日ミュンヘン協定。ドイツ、チェコからズデーテン地方略取
1939年3月15・16日ドイツ、チェコを解体して、ボヘミア、モラビアを併合
1939年4月7日イタリア、アルバニアを占領
1940年4月9日ドイツ、デンマークおよびノルウェーに侵入

このように、ドイツを中心とした軍事行動がほぼ半年周期で起こっているというのです。ウワバミとは、ナチスドイツのことだったのです。では、ゾウとは何か。仏教やヒンドウー教の世界では、ゾウは神であり、または神の乗り物です。または「地球」のシンボルでもあります。

ウワバミは、地球そのものであるゾウを丸ごと飲み込もうとしているのです。これは、世界征服をめざすナチスドイツの野望をあらわしているのです。

それから、『星の王子さま』には三本のバオバブという木が登場します。この木は、人間の「欲」や「得」とかいった悪い感情を象徴しています。サンテックスの祖国フランスでは、バオバブもウワバミも偶然ながら「ボワ」と発音するのですが、それが意味する内容も同じでした。

三本のバオバブは、ドイツ、イタリア、日本のことなのです。塚崎氏の見方を受けて、童話作家の吉田浩氏は、『「星の王子さま」の謎が解けた』(二見書房)において述べます。

「イタリアで芽吹いた〈ファシズム〉という独裁主義は、世界各国に広がり、他国を侵略して領土を広げたいと思っていた日本の〈帝国主義〉と結びつきました。そして、独裁主義のドイツ〈ナチズム〉が、イタリアと日本と組んで三国同盟を作りました。バオバブの芽はイタリアから飛んできたのです。ヨーロッパの国々は、バオバブの芽を摘みとらずに放っておいたため、成長してしまったのです。サンテックスは、三つのバオバブの芽を摘みとりたかったのです。

〈ヒツジ〉に食べさせたかったのです」

ヒツジとは〈従順な市民〉を表わします。「小さいバオバブの木はヒツジが食べてくれる」という一文が出てきますが、これには独裁者の登場を許さない民主主義への大きな期待が込められているようです。

『星の王子さま』の政治&軍事批判

このようにサンテックスは、徹底してナチスドイツとその同名国を批判したのでした。吉田氏は、「『星の王子さま』は表向きは、子ども向けのファンタジーですが、その背後に脈々と流れる思想は、政治批判、軍事批判、人間批判だったのです」と述べています。

しかし、サンテックスの思想は単なる批判精神を超えて、はるか宇宙的視点とでも呼ぶべき巨大なスケールをもっていました。それは、彼が飛行機の操縦士であった事実と関係しています。身の危険を冒して飛行機の操縦桿を握り、大空から地球と人間を観察する。そして、それを文学にする。これまでだれもできなかったことでした。これまでの多くの思想家たちが頭で考えていたことを体全体で感じ、思考した人物こそ、サンテックスだったのです。彼は、飛行という極限状態にあって、どこまでも自由な思考を得ました。山本武信氏は、著書『星の王子さまからの警鐘』(共同通信社)に次のように書いています。

「枠を破ったとき、飛躍がある。大空へ飛翔するという物理的な行為によって、思想の営みは根本的に変わることになった。地上から天上を見上げて創造主を夢想していた時代は遠ざかり、天上から地球を見下ろし、人間の営みを全体として見つめる時代が始まった。大地から肉体が離れることにより、思想そのものが大地の束縛から離陸し、飛行し始めた」

飛行というのは一種の臨死体験であると、わたしは思います。飛行機とは肉体から飛び立つ幽体そのものであり、天上から見下ろす地球とは幽体離脱後の肉体なのです。ましてや現在でこそ飛行機はそれほど墜落しなくなりましたが、サンテックスが乗っていた初期の飛行機は墜落をはじめとした事故が日常茶飯事でした。事実、サンテックス自身も何度も飛行機事故で死にかけていますし、その最後も敵軍のパイロットによる撃墜死でした。いつ死んでもおかしくない飛行機とは「死」のシンボルであったといっても過言ではないでしょう。

ですから無事に地上に着陸したときは、離脱した幽体が肉体に戻ることができたような深い安堵感があったのではないでしょうか。そして、多くの臨死体験者が蘇生後に人類愛のような普遍的な感情を得るのと同じようなメカ二ズムがサンテックスの心に働いたのかもしれません。

もっとも、飛行機に乗ったのはサンテックスが初めてではありません。彼の前には、かのライト兄弟やリンドバーグもいました。しかし残念ながら、ライト兄弟には文才がありませんでした。リンドバーグには『翼よ、あれがパリの灯だ!』という有名な著書がありますが、あくまでもノンフィクションの古典とされる手記の類であり、サンテックスのように飛行体験を文学体験、あるいは哲学的思考にまで高めたわけではなかったのです。山本氏は述べます。

「もちろん、古代中国の『荘子』のように豊かな想像力によって地上の束縛を脱ぎ捨て、大空に飛翔した物語はいくらでもある。しかし、実際に空に飛び立って新たな世界像を提示したのはサン=テグジュペリが人類史上初めてである」

大空から見た大地には、当然のことながら国境などは存在しません。国家も民族も言語も宗教も超えた「地球」、そしてそこに住む「人類」をサンテックスは天上から見てしまったのです。

「人類」というコンセプトの生みの親・イエス

「グローバリズム」という言葉があります。「地球主義」とでも訳すべきでしょうが、最近はどうも「アメリカニズム」と同義語のようになっていることが気になります。でも、21世紀に生きるわたしたちが地球的な視野であらゆる問題について発想しなければならないことはいうまでもありません。戦争や環境破壊の問題にしても、結局はわたしたち一人ひとりが、自分は「地球」に住んでおり、「人類」という生物種に所属しているという意識を強くもつことが大切です。

哲学者のベルグソンによれば、「人類」という考え方が歴史の中に明確に現われてくるのは、『新約聖書』の福音書以降のことだそうです。つまり、「人類」というコンセプトの生みの親は、どうもイエスのようです。

イエスによって生まれた人類的視点は、20世紀になって多くの人々がもちました。シュタイナーやメーテルリンクなどもそうですが、日本の宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』の序論で次のように述べました。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団的社会宇宙へと次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか」

熱心な仏教者であった賢治のいう「古い聖者」とは、おそらくイエスではなくブッダのことでしょう。でも、ここで賢治はあきらかに「人類」というものの幸福を意識しています。考えてみれば、ブッダにしろイエスにしろ、または孔子やソクラテスにしろ、古代の聖人とされた偉大な人々はみな、人類すべての幸福を願い、人類を善き方向に導こうとしたのではないでしょうか。

2度にわたる世界大戦が行なわれた20世紀とは戦争の世紀でした。そして、テクノロジーの世紀でもありました。1903年にライト兄弟が最初の飛行機を飛ばした54年後の1957年には、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク一号の打ち上げに成功し、さらに4年後の61年には世界最初の有人宇宙飛行に成功しました。初めて宇宙に進出した人類となったガガーリンは「地球は青かった」と言いました。そして、その8年後、アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功しました。人類は、ついに月に立ったのです。

それ以降も月面着陸はつづきましたが、月に降り立って地球をながめた宇宙飛行士たちはいずれも強烈に「人類」を意識したと報告しています。「宇宙船地球号」という言葉が生まれましたが、あらゆる立場の人間にとって地球とは「呉越同舟」のスペースシップなのだと、宇宙飛行士たちは訴えました。

サンテックスは、彼らの先達だったのです。のちの宇宙飛行士たちが得た宇宙的視点というものをサンテックスは20世紀の初頭に獲得していたのです。しかも、シュタイナーやメーテルリンクや賢治はおそらく幽体離脱という神秘的方法によって宇宙的視点を得ましたが、サンテックスは飛行機によって幽体離脱のテクノロジー化に成功したのです。このことは、人類の意識の歴史というものを考えたとき、非常に重大な意味をもつと思います。

テルリンクとサンテックスの不思議な縁

さて、『星の王子さま』に戻りましょう。この物語は、日本の宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と同じく、さまざまなシンボルに彩られた星をめぐる物語です。また、メーテルリンクの『青い鳥』も同じく、子どもがいろんな世界をさまよった末に家に戻って幸福を見いだす物語です。ファンタジーの糸でつながれたメーテルリンクとサンテックスには、現実の世界でも不思議な縁がありました。

サンテックスと結婚したコンスエロにはゴメス・カリヨという前夫がいました。グアテマラ生まれの新聞記者でしたが、散文の詩人としても有名でした。彼は、ジェイムス・ジョイス、オスカー・ワイルド、ポール・ヴェルレーヌ、エミール・ゾラ、サルバドール・ダリなどの著名人たちと親しく交わりましたが、その最大の親友がモーリス・メーテルリンクだったのです。

ゴメス・カリヨはひっきりなしに各地を旅して多くの記事を発表しましたが、向こう見ずなところがあり、ほんのちょっとした挑発にものって決闘したりしたそうです。メーテルリンクは、そんな彼のことを「三つも四つもの生き方を一つの人生に詰め込んで、そのすべてを大抵の人が一つの人生を全うするよりも完璧にこなしてしまう、本物のルネッサンス人」と評しています。

コンスエロもまた自由奔放な女性でした。二人の結婚は芸術的な魅力にあふれたものだったようですが、1927年にゴメス・カリヨは、突如としてその生涯を終えます。原因は自殺であったとされています。

夫の死後、ゴメス・カリヨがアルゼンチンの新政権を支援していた関係で、アルゼンチン政府より未亡人であるコンスエロに年金を給付したいという申し出がありました。そこでコンスエロは亡夫の友人だった文学評論家のバンジャマン・クレミューと一緒に南米に向かいますが、ブエノス・アイレスでクレミューから一人の新進作家を紹介されます。それがサンテックスだったのです。

サンテックスはコンスエロに一目惚れし、情熱的なプロポーズを繰り返します。無鉄砲な飛行士からの激しい求愛に当惑した未亡人は、パリに戻るやいなや、亡夫の親友であったメーテルリンクに新しい恋の悩みを相談したのでした。

コンスエロからの相談を受けたノーベル文学賞作家メーテルリンクは、まだ作家の卵でしかなかったサンテックスの『夜間飛行』の原稿を読みました。読み終えると、「彼は将来フランスを代表する作家になるだろう」とコンスエロに告げます。メーテルリンクは、サンテックスの将来性に太鼓判を押したのです。そして、このひと言がきっかけで、彼女はサンテックスとの再婚を決意したのでした。

メーテルリンクのみならずアンドレ・ジッドにも絶賛された名作『夜間飛行』は、暗い夜空を飛ぶ郵便飛行機の物語です。ジッドが序文で書いたように「夜の危険をはらんだ神秘」についての瞑想の書だといえます。

「夜」という言葉がじつに63回も使われている『夜間飛行』は、へミングウエイの『老人と海』のように自然との闘いを描きながらも、叙情性をもって「死」を描いています。この叙情性がメーテルリンクの心の琴線にふれ、かつて彼がゴメス・カリヨに対して表わした敬意はサンテックスのものになりました。コンスエロは、ふたたび「散文の詩人」と自分は結婚することになったのだと思ったそうです。

『人魚姫』と『星の王子さま』

このように、サンテックスはメーテルリンクのおかげで彼女と結婚できるはこびとなったわけです。あとで紹介するバラのエピソードをはじめ、『星の王子さま』の内容が彼女との結婚生活を抜きには成り立たない事実を考えると、興味深いものがあります。すなわち、コンスエロと結婚することによって、サンテックスは『星の王子さま』を書くように運命づけられていたのです。『青い鳥』の著者が、この世に『星の王子さま』が誕生する用意をしたのです。当然ながら、愛する妻の相談相手であり結婚の恩人でもあるメーテルリンクの『青い鳥』をサンテックスは読んでいたはずです。そして、その内容が『星の王子さま』に影響を与えたことはあきらかだといえるでしょう。

しかし、『星の王子さま』に直接のインスピレーションを与えたとされる作品がほかにあります。アンデルセンの『人魚姫』です。

『夜間飛行』はたいへんな評判となり、アメリカでもベストセラーになって、ついには映画化されます。飛行士役の俳優はなんと、あのクラーク・ゲーブルでした。いうまでもなく、「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じたハリウッドのキングです。そして、フランス人女優のアナベラが、飛行士の恋人を演じました。アナベラは、フランスを代表する映画監督ルネ・クレールの「巴里祭」の娘役で脚光を浴びた人です。

さて、そのルノアール監督の招待により、サンテックスはハリウッドに滞在していましたが、体調を崩し、入院することになりました。そのとき、よく見舞いに訪れたのがアナベラでした。彼女は、枕元のテーブルの上に一冊の本が置かれているのに気づきます。それは『アンデルセン童話集』でした。アナベラはその本を手に取り、病床のサンテックスに『人魚姫』の物語を朗読して聞かせます。

サンテックスは『アンデルセン童話集』をいつも大切に持ち歩いていたそうです。彼が書いた唯一の童話である『星の王子さま』にさまざまな形で影響を与えたことは想像に難くありません。この入院中にも、『アンデルセン童話集』を読んでいたということは、このとき、『星の王子さま』の構想が漠然とながらもサンテックスの心の中に生まれていたものと考えられます。

『人魚姫』はフランス語でLa Petite Sire(※eの上に´入る)neで、「小さな人魚」という意味です。『星の王子さま』の原題はLe Petit Princeで、「小さな王子」という意味です。両作品はあきらかにつながっています。自分の思いを愛する人にわかってもらえない人魚姫の「孤独」のイメージは、さまざまな星をめぐっても「ほんとうのこと」がわからない王子さまの「孤独」に通じます。

サンテックスの人生は孤独の連続でした。そもそも彼は飛行機のパイロットでした。たった一人で砂漠や山脈を横断することはとても孤独なことです。そして、作家という仕事も孤独なものです。たった一人で机に向かい、自分の心とだけ向かい合って言葉を紡ぎ出していかなければならないのです。

しかも、サンテックスは作家になったあと、さらに孤独になりました。『夜間飛行』で作家としての名声を得たサンテックスに対して、パイロット仲間の大半は冷淡でした。無名の人間として黙々と飛行士という仕事に励む彼らは、「自分の職業について書くべきではない」と信じていたのです。だから、サンテックスを自分たちの犠牲のうえに名声を築いた裏切り者であり、目立ちたがりのいやな奴だと見なしたのです。

また、文壇の作家たちもサンテックスに対して冷淡でした。パイロットという技術屋あがりが自分の職業について書いているだけだと見下していたのです。多くの読者を得ているにもかかわらず、サンテックスはなかなか作家の仲間に入れてもらえませんでした。まるで獣からも鳥からも仲間に入れてもらえないコウモリのような孤独といえるでしょう。

なぜ、会社経営をしつつ本を書くのか?

じつは、かくいうわたしもサンテックスの孤独はよくわかります。パイロットも作家も孤独な職業ですが、もう一つ挙げるとしたら、わたしは社長業だと思います。すべてを自分一人で決断しなければならず、失敗してもだれにも責任を負わせることはできない。決断を誤れば、社員とその家族を路頭に迷わせてしまう。本当に、社長業ほど孤独なものはないと思います。でも、わたしはそのうえに物書きもやっています。ただでさえ孤独な仕事に就いている人間がさらに孤独な作業をする。なんと因果なことかと自分でも思います。

また、経営者仲間からは「二足のわらじをはく余裕があって結構なことだ」と皮肉られ、出版界の人々からは「しょせんは社長の道楽」というふうに冷たく見られることもあります。では、なぜ、そんなつらい思いをしてまで、わたしは会社経営をしつつ本を書くのか。

「経営と執筆という営みが本当に両立できるのか」。じつに多くの方々から、この質問をいただきます。結論からいうと、わたしは「できる」と思っています。いや、わが志を果たすためには両方の営みが不可欠だと思っています。

わたしの志とは、心なきハートレス・ソサエティに進みつつある社会を、心ゆたかなハートフル・ソサエティへと進路変更すること。平たくいえば「世直し」をしたいということです。大風呂敷を広げるようで申し訳ありませんが、本当に心の底からそう思っています。そのためには、本を書いて私の考えや想いを世に問うことも、事業によってその考え、想いを形にしていくことも両方必要なのです。見果てぬ夢かもしれませんが、陽明学でいう「知行合一(ルビ・ちこうごういつ)」をめざしたいと思っています。

もちろん、わたしごときをサンテックスと比べるなど、不遜のきわみであることは重々承知しています。でも、おそらくサンテックスにもわたしと同じような思いがあったのではないでしょうか。

仮の世界と、真の世界

サンテックスがある紙面で「飛行士としての名声、とくに不時着事故を文学に利用している」との批判を受けたとき、友人のレオン・ウェルトは、「彼にとっての飛行機とは、空間の秘密・人間の秘密を発見するための道具であり、偉大な夢をはぐくむ道具なのだ」と反論し、全面的にサンテックスを擁護しました。そのことがあってからサンテックスは自分の文学の最高の理解者はウェルトであることを知り、『星の王子さま』での献辞につながったとされています。

現在とはちがって、当時のパイロットは死ぬ確率が非常に高く、危険な仕事として嫌われていました。しかしサンテックスは、けっしてパイロットという仕事を軽く見てはいませんでした。それどころか子どものころからあこがれつづけた仕事であり、心からの誇りをもっていました。郵便物を配達する路線飛行士となったとき、彼は「どんなことがあっても郵便物を無事に運び、けっして時間に遅れないこと」をモットーとしました。あらゆる職業には意味があるのです。この考えは、『星の王子さま』に出てくる点燈夫のエピソードにつながると思います。

王子さまは、自分の星を出てから6つの星を旅しました。訪ねた星を順番に並べると、王さまの星、うぬぼれ男の星、呑み助の星、実業家の星、点燈夫の星、そして最後に地理学者の星でした。これら6つの星の住人たちは基本的にナルシストで他人のことなど気にせず、自分自身に酔っています。王子さまは彼らと友だちにはなりたくないなと思いますが、一人だけ例外がいました。夜と昼のめまぐるしい交代に合わせて休みなく街燈の灯を点けたり消したりする点燈夫です。『星の王子さま』には、こう書かれています。

「点燈夫が街燈に灯をともすとき、それはまるで彼が新しい星や一輪の花を誕生させたかのようです。彼が街燈の灯を消すときに、その花も星も眠ります。これはとても素敵な仕事です。素敵だから本当に役に立つのです」

わたしはこの言葉が大好きでよく社員にも話します。わが社は接客サービス業ですが、お客さまに接する現場のスタッフも、総務や経理などの現場を裏でサポートするスタッフも、ともに本当に役に立つ素敵な仕事をしているのだということを説明します。王子さまも、役に立つ素敵な仕事をしているから点燈夫に好意を抱き、友だちになってもよいと思ったのです。

でも、この点燈夫のエピソードには注意点もあります。もともと彼の仕事は役に立つ素敵な仕事だったのですが、仕事を自分の中で義務化してしまい、自分で自分をどんどん忙しくしていきました。そして、ついには、意味もなくめまぐるしく灯りを点けたり消したりするようになってしまいました。彼は自分を見失ってしまったのです。点燈という仕事からは意味が失われ、単なる目的と化してしまったのです。

わたしたちの周囲にも、しなくてもよい仕事や意味のない仕事に取り組んで勝手に忙しがっている人はいないでしょうか。また、点燈夫は労働者のシンボルですが、完全に管理された存在であり、みずから考える暇を与えられずベルトコンベアー式の労働に従事させられているという見方もできます。これは、チャールズ・チャップリンが「モダン・タイムス」で人間を疎外する機械文明を批判したことに通じます。チャップリンは、ヒトラーを批判する「独裁者」という映画もつくっていますが、これもウワバミやバオバブでナチスやヒトラーを風刺したサンテックスの精神と共通します。

仮の世界と、真の世界

わたしは、ヒトラーこそは20世紀最大の魔人であり、彼の魔術とは「呪い」としての黒魔術だったと思っています。その黒魔術の蔓延を防ぐために多くの白魔術師たちが登場しました。それが、サンテックスであり、チャップリンであり、シュタイナーであり、経営学者のドラッカーなどでした。彼らはいずれもナチスを批判し、「呪い」を打ち消す「祈り」「癒し」「笑い」「信頼」などの白い魔術を駆使し、人類社会を善き方向へ導いたのです。

その中でも、とくにサンテックスとチャップリンは大物でした。おもしろいことに二人ともアメリカでは冷遇されました。世界的ベストセラーである『星の王子さま』もアメリカでは最初、黙殺されています。なぜなら、点燈夫はもとより実業家を風刺する描写がアメリカに象徴される大衆資本主義そのものへの批判であると受け取られたからです。チャップリンもアメリカから追放されるという経験をしています。

資本主義といえば、最近、アメリカ発の世界金融危機によって、「資本主義が始まって以来の危機」が叫ばれています。わたし自身も、誕生から四百年を経過して、そろそろ資本主義というシステムは制度疲労を起こしているのではないかと感じています。

それにつけても、怒りを抑えることができないのは、超大手企業による数万人単位のリストラです。それまで儲けたいだけ儲け、空前の利益をあげてきた優良企業が、ひとたび不況が訪れると、平気で何万人もの従業員の首を斬る。まだ利益が出ている段階でも、業績が下がり株価が下がるのを嫌って、どんどん人間を切り捨てていく。

これには、経営者の端くれとして、わたしは猛烈な怒りを感じます。なにより腹が立つのは、それらの数万人という従業員の存在を「人間」ではなく単なる「数字」としてしか見ていないことです。1万6千人なら、そこには1万6千人の生身の人間がいて、それぞれには名前があり、顔があり、家族がいて、生活があるのです。そういったリアルな「人間」というものを忘れて、完全に「数字」としてしか見ていない。そこには、「人間尊重」のかけらもありません。

常に決算時の業績をよくしておかなければ投資家の支持を失ってしまうという資本主義の悪しき側面です。そして、それはチャップリンやサンテックスが批判したアメリカで花開いた資本主義の真実の姿です。

五千本のバラより、絆のある一本のバラ

いうまでもなく、大事なのは数字ではなく、人間です。数字とは何でしょうか。『星の王子さまの警鐘』で、山本武信氏は次のように述べています。

「数字とはそもそも、具体的な表象をすべて削り落とした抽象的普遍性だ。だからこそ、計算もできる。例えば、一人、二人、三人というふうに数えられるのは人格や顔つきや肉体の特徴など各人の個性を捨象してしまっているからだ。数字中心の世界は人間味に欠ける」

人間の人格や肉体や生活を削ぎ落とした「人件費」という名の数字の世界、それこそが資本主義です。点燈夫の星を訪れる前、4番目に訪れた星では、実業家が夜空の星々を意味もなく数え、計算ばかりしています。彼は計算するだけで、星々を自分が所有できると思い込んでいるのです。星を「数字」によって抽象化するだけで所有できると錯覚しているのです。これほど、数字中心の世界、すなわち資本主義に対する強烈な皮肉はありません。

「数字」の問題は、6つの星をめぐったあとに訪れた地球のエピソードでも登場します。王子さまの星には、1本の美しいバラがありました。王子さまはそのバラを、この世界で1本しかない珍しい花だと信じていました。しかし、地球で同じバラの花が5千本も咲いているのを見て、ショックを受けます。王子さまが珍しいと思っていたバラは、地球ではありふれた花だったのです。

王子さまは、最初は自分の星のバラをつまらない花と思い、そんなつまらないものを大切にしていた自分に自己嫌悪さえ抱きます。

でも、その考えが間違っていたことにやがて気づきます。王子さまのバラは、やはりたった1本のかけがえのない花だったのです。なぜなら、それは王子さまが面倒を見たバラだったからです。唯一、王子さまだけが面倒を見て、心を寄せた花だったからです。そして、そのバラの存在によって、王子さまもこの世で「唯一の存在」であり「かけがえのない存在」になれるのです。王子さまも、バラも、両者の絆によって互いに、このうえなく価値を帯びてくるのです。

重要なのは数の多さではありません。5千本のバラより、王子さまにとって大切なのは絆のある1本のバラです。会社の経営者も同じです。たとえ数万人単位で従業員の数が増えたとしても、その一人ひとりとは絆がなければならない。そして、できれば、その一人ひとりの名前、顔、人格を心に刻んでいなければならない。青臭い意見だといわれることを承知で、わたしはそう思います。

もちろん人数にもよるでしょうが、できうるかぎり経営者は自分の従業員、上司は自分の部下の名前と顔を覚えているべきだと思います。わが社には1500名近い社員がいますが、わたしは今のところ、彼らの名前と顔を覚えています。そして、その全員の誕生日に直筆のバースデーカードとプレゼントを贈っています。この地球上に何10億人の人々がいようとも、やはり彼らはかけがえのないバラの花なのです。

見たことがないことは、いないということではない

さて、職業の話のつづきをしたいと思います。

『星の王子さま』の全体に流れるメインテーマは「かんじんなことは、目には見えない」です。わたしは、いま、これをサービス業に携わる者の心得として、いつも社員に話しています。自分たちの仕事は、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といった目に見えない大切なものを扱う素敵な仕事なのだと語りかけます。

「かんじんなことは、目には見えない」は、サンタクロースを連想させます。みなさんは、お子さんやお孫さんから「サンタさんは、いるの?」と聞かれたことはありませんか?

その答えは簡単。サンタクロースはいます! そのことをあきらかにした『サンタクロースっているんでしょうか?』(偕成社)というすばらしい絵本があります。八歳の少女ヴァージニアの問いに、アメリカの新聞社が社説として真剣に答えたという100年以上前の実話です。

著者は、少女に対して「見たことがないということは、いないということではないのです」と、やさしく語りかけます。愛、思いやり、まごころ、信頼……この世には、目に見えなくても存在する大切なものがたくさんある。逆に本当に大切なものは目に見えないのだと記者は説きます。サンタクロースは、それらのシンボルなのです。

現代ほどサンタクロースの存在が求められる時代はありません。今度、お子さんやお孫さんから「サンタさんはいるの?」と聞かれたら、「もちろん、いるよ!」と答えてあげてくださいと、わたしは多くの方々に呼びかけています。新聞のコラムにも書きました。

このようにサンタクロースは、「本当に大切なものは目に見えない」という『星の王子さま』を一貫して流れているテーマに通じるのです。さらに、サンテックスは「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない」と、作中に登場するキツネに語らせています。

心で見るとは、どういうことでしょうか。それは、「感じる」ということです。「心で見る」とは「感じる」と同じ意味なのです。そこで、「共感」というキーワードが出てきます。

旋盤工の職人は、何千、何万という旋盤に触れながら、百分の一ミリのちがいを指先で感じられるようになるそうです。また、オーケストラの指揮者は耳を研ぎすまし、あらゆる楽器が音を奏でる中で、1つの楽器が発する、わずか一音のちがいをキャッチするとか。

同じように、ホテル業や冠婚葬祭業に携わるサービスマンも「共感」する感性を研ぎすますことで、お客様が考えていること、求めていることを瞬時にキャッチできるようになるのです。

大事なのは、「同感」ではなく「共感」なのです。サービスマンは、お客様とまったく同じ立場にはなれません。しかし、それぞれの立場を想像し、かぎりなくその心情に近づいてことはできます。

そして、「共感」とともに「気づき」というものが大事です。「心で見る」というのは「気づく」ということでもあります。

気づく人というのは、人が困っていたりするのが見えるわけですから、すぐにサポートしてあげることができます。また、気づく人は、人が喜んでいるときにもそれに気づくので、一緒に喜んであげることができます。気づかない人というのはサービスマンとして失格ですね。

仮の世界と、真の世界

旋盤工の職人やオーケストラの指揮者などの音楽にかかわる職業が出てきましたが、最高の気づきの達人として、かのモーツァルトの名を挙げることができます。

世界でもっとも愛された音楽家である彼は、他人の感情に非常に敏感でした。彼の音楽および演奏は他人の期待に応えることをなによりも大切にしていました。そして、他人が今、自分に何を欲しているかを知ることができたのです。このように高い感知力をもっていたせいか、モーツァルトはいつも上機嫌だったそうです。これについて、齋藤孝氏は著書『人間関係力』(小学館)で次のように述べています。

「他人の感情を感知するには、やはりモーツァルトのように、他人との壁を取り払い、上機嫌でいる必要がある。上機嫌だから感知力が上がる。だからいい音楽が作れる。喜んでもらうから上機嫌になる。感知力が上がる……モーツァルトはこうした好循環の中にいたからこそ、類まれなる才能で700曲以上の作品を残せたのだ」

他人の感情を感知し、喜んでもらい、上機嫌になる。この好循環に入ることは、もちろん作曲だけではなく、サービス全般においていえることです。

もともと、「気づき」をはじめ、「気配り」「気働き」「気づかい」という言葉があるように、「サービス」とは「気」に通じます。

わたしは昔から、サービス業とはお客様に元気、陽気、勇気といったプラスの気を提供する「気業」であると言いつづけてきました。

ところで、モーツァルトといえば、サンテックス自身が絵に描いたあの可愛らしい王子さまのモデルと関係があることをご存じですか。サンテックスがフランスからポーランドへ向かったとき、汽車の中で一人の少年を見かけました。三等車には多くのポーランド労働者が乗っていましたが、サンテックスはある一組の夫婦の前に腰をおろします。夫婦のあいだには子どもが寝ていて、その子が寝返りをうったときに顔が灯火の前に浮かび出ます。その顔を見たときのおどろきを、サンテックスは『人間の土地』に次のように書いています。

「おお! なんと愛すべき顔だろう! この夫婦から、一種黄金の果実が生れ出たのだった。この鈍重な二人の者から、美と魅力のこの傑作が、生れ出たのだった。ぼくは、このつややかな額、この愛すべき、とがらせた唇のやさしい表情の上にうつむいた。そうして、ひとり言をもらした、これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそみごとな生命の約束だと」

愛すべき顔をもった労働者の子ども。彼は「少年モーツァルト」と名づけられて、サンテックスの心に住みつきました。サンテックスは、レストランのナプキンなどによく少年モーツァルトの似顔絵を描きましたが、それをたまたま見つけた編集者がいました。彼は、その少年を主人公にした童話を書くことをサンテックスに勧めました。そう、その童話こそは『星の王子さま』であり、王子さまの原型は少年モーツァルトだったのです。

魂でなら見ることができる

「心で見る」ことについて、さらに大事なことがあります。それは、見えないものを形にして、目に見えるようにすることです。そんなことが可能なのかと思うかもしれませんが、もちろん可能です。

見えないものを形にするとは、茶道、華道、日本舞踊などの芸道がそうですし、剣道などの武道もそうです。ヨガや気功なども含めて、一般に身体技法というものは見えないものを見えるようにする技術なのです。広い意味での芸術や芸能もそうです。それらは、心を形にするテクノロジーだといえるでしょう。

そして、サービス業において見えないものを形にする技術とは何か。それは、挨拶、おじぎ、しぐさ、笑顔、愛語、といったものです。わたしたちが普段から心がけているこれらのものこそ、本当に大切なものを目に見える形でお客様に提供することができるのです。

挨拶にしてもおじぎにしても、もちろんマニュアルがあります。マニュアルに書かれた、また上司や先輩から指導された基本は、繰り返し行ない、徹底していくことが必要です。それらが無意識に行なえるレベルにまで高まったとき、やっと一流のプロのサービスマンと呼べるでしょう。

もっとも、「かんじんなことは、目には見えない」には、ほかにもさまざまな解釈が存在します。たとえば、作家の三田誠広氏は哲学者プラトンのいう「イデア」のことではないかと、著書『星の王子さまの恋愛論』(集英社文庫)で述べています。イデアとは、わたしたちが目で見ている現実の世界の向こう側にある理想の世界のことです。プラトンは、イデアの世界こそ真実の世界であり、わたしたちが見ている現実の世界はイデアの影にすぎないと考えました。

「かんじんなこと」という言葉はフランス語では「エッサンシエル」、英語だと「エッセンシャル」です。つまり、「本質的なもの」という意味になります。三田氏は、「目で見えない本質的なものとは、すなわちイデアです。目では見えないけれども、魂でなら見ることができる」と書いています。

ところで、イデア論を唱えたプラトンは古代ギリシャの哲学者ですが、彼の師は西洋哲学の祖とされるソクラテスです。じつは、王子さまの姿をソクラテスに重ねる人がたくさんいます。王子さまは、とにかく相手にしつこく問いつづける質問者です。この王子さまの態度は、問うことによって大切なことや忘れていたことを思い出させ、相手に何かをみずから考えさせようとした、ソクラテスの問答法にそっくりなのです。その問答法は「産婆術」とも呼ばれます。

ソクラテスといえば、悪妻クサンチッペの存在が有名ですが、サンテックスの妻であるコンスエロも悪妻として知られていました。派手好きで勝気な妻にサンテックスは随分と手を焼いたようです。

『星の王子さま』には、わがままなバラが出てきますが、このモデルはコンスエロだというのが定説です。バラは、この物語においてきわめて重要な役割を果たしています。たった一人で小さな星に暮らしていた王子さまの幸せな生活を邪魔する存在がバラの花でした。バラは無邪気なのですが、わがままで、ウソつきで、依存的で、無秩序な存在で、自分の要求だけを突きつけるのです。一緒にいるとお互いに傷つけ合うと思った王子さまは、自分の星から飛び出してしまいます。

一本の守るべきバラ

さまざまな星をめぐった王子さまは、地球でバラの花を見て、泣き出してしまいます。あんなにも自分が大切に育て、あんなにも自分を困らせたバラは、5千本の中のたった1本でしかなかったのです。このとき、王子さまは生まれて初めての大きな喪失感を覚えました。自分は、この広い宇宙の中でなんと小さな、なんと意味のない存在であるかということを思い知るのです。でも、王子さまが面倒を見たたった一本のバラの花があることによって、王子さまは「意味のある存在」になります。自分とバラの花はお互いに強い絆で結びついた「唯一の存在」であることに気づいた王子さまは、ふたたび、5千本のバラの花を見に行きます。そして、「あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ」と語るのです。

そして、砂漠で会ったキツネから「めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなきゃならないんだよ、バラの花との約束をね……」ということを教わった王子さまは、自分だけの一輪のバラが待つ小さな星へ還っていきます。

サンテックスにとっての1本の守るべきバラとは何でしょうか。それは、フランスに残してきた妻のコンスエロだというのが定説ではありますが、ほかにもニューヨークにいた不倫関係の恋人であるとか、故国フランスそのものであるとか、いろいろな説があります。でも、わたしは、きっと彼にとってのバラとは、妻であり、恋人であり、故国でもあったのだと思います。バラは、すべての「かけがえのない大切なもの」のシンボルなのだと思います。

バラの花の存在によって、王子さまは愛を知り、愛したものに対する責任を学びます。気まぐれにペットを捨てるばかりか、わが子さえ捨てる人もいる昨今、王子さまのメッセージはわたしたちの心に突き刺さります。親ならば子に対して、夫ならば妻に対して、経営者ならば社員に対して、教師ならば生徒に対して、わたしたちは愛と責任をもたなければならないのです。

職場でのコミュニケーションがうまくいかずに悩んでいる人もいるでしょう。離婚を考えている人もいるでしょう。親の介護をしている人もいるでしょう。わたしたちは、すべてつながっているのです。わたしたち人間は一人では生きていけません。重要なのは「人間」ではなく、「人間関係」なのです。サンテックスは、名著『人間の土地』に次のように書いています。

「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ」

パイロットだった彼はサハラ砂漠に墜落し、水もない状態で何日も砂漠をさまようという極限状態を経験しています。そこから、水が生命の源であることを悟り、『星の王子さま』に「水は心にもいいものかもしれないな」という名言を登場させたのです。

砂漠が美しいのは?

わたしは、『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本を書きましたが、その本で、ブッダ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子といった偉大な聖人たちを「人類の教師たち」と名づけました。

彼らの生涯や教えを紹介するとともに、8人の共通思想のようなものを示しました。その最大のものは「水を大切にすること」、次が「思いやりを大切にすること」でした。「思いやり」というのは、他者に心をかけること、つまり、キリスト教の「愛」であり、仏教の「慈悲」であり、儒教の「仁」です。そして、「花には水を、妻には愛を」というコピーがありましたが、水と愛の本質は同じではないかと、わたしは書きました。まさに『星の王子さま』に出てくるバラのエピソードは「花には愛を」であり、水と愛が同じであるということを証明しているのです。

また『星の王子さま』には、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」という王子さまのセリフが出てきます。心の奥底に「思いやり」という水にあふれた井戸をもつ人は美しいのです。もっと深読みをするならば、王子さまが降り立ったサハラ砂漠の地下1000メートルには、太古に形成された巨大な帯水層が存在するといわれているそうです。砂漠に封印されたこの「水の化石」の面積は、じつに50万平方キロメートルにもおよぶとか。もしかすると、サンテックスはこのサハラが隠している太古の水のことを知っていて、王子さまに謎めいたセリフをはかせたのかもしれません。

そして井戸といえば、サンテックスの祖国フランスでは、きわめて重要な役割をもっていました。そこは社会的な交流の場であるとともに、巡礼者がのどの渇きを癒しに訪れる場所でした。さらには、結婚の宣誓を行なう聖別された場所でもあったそうです。つまり、人と人とが結びつく人間関係の聖地、それが井戸だったわけです。

出版社が反対した『星の王子さま』のラストシーン

最後に、『星の王子さま』のラストシーンについて見てみたいと思います。地球上での王子さまの最後をサンテックスは次のように描写しています。

「王子さまの足首のそばには、黄いろい光が、キラッと光っただけでした。王子さまは、ちょっとのあいだ身動きもしないでいました。声ひとつ、たてませんでした。そして、1本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから」

この美しい王子の最期について、出版社はとても反対したそうです。アメリカの出版社だったことも関係があったかもしれませんが、読者は救いのない悲劇よりもハッピーエンドを好むものであり、王子を無事に自分の星に帰すようにサンテックスを説得しました。幼い子どもの死など絶対にタブーだったのです。

しかし、アンデルセンの熱心な愛読者であったサンテックスには、すで1に『マッチ売りの少女』という幼い少女が死ぬ物語が存在することを知っていました。また、『星の王子さま』に直接のインスピレーションを与えた『人魚姫』も最後は命を失いますが、天国で永遠の命を得る物語でした。サンテックスは断固として、王子さまを死なせないようにという出版社側の要求を拒否しました。

王子さまは自分の星に帰るため、最後は毒蛇にわが身を咬ませて昇天します。蛇は『旧約聖書』の「創世記」にも登場してアダムとイブを誘惑する存在であり、ナチスを象徴するウワバミでもあります。いずれにしても、王子の最期はみずから悠然と毒を飲んだソクラテスの死、さらには十字架上のイエスの死をも連想させます。そう、多くの人々にとって王子さまとは幼い聖人であり、『星の王子さま』とはその言動を記録した福音書であったといえるでしょう。

塚崎幹夫氏は、著書『星の王子さまの世界』で王子の死について述べています。

「王子の死そのものはあっという間に終わる。王子はほんとうに死んだのかどうか、確言できないほど瞬時にである。飛行士は体がなかったことを強調し、体をもっていけないといっていた王子のことばを不確かにし、その地上での死を信じていないかのようにひたすら見せかける。飛行士としては当然である」

サンテックスは、死のベールの向こうに「王子さまは、自分の星に帰ったのかもしれない」という希望を置いたのです。地上の死はあくまで肉体の死です。そして、天上では肉体を超えた永遠の命へとつながる道が開けています。そして、大切な人が亡くなっても、その人を思い出すたびにまた会える。この『青い鳥』にも見られるモチーフを込めたことによって、『星の王子さま』は深みのある物語となりました。ラストシーンでやさしく鳴り響く鈴の音も、このうえなく物語に深みを与えています。鈴は仏教の無常観をあらわしているのかもしれません。

「この世の中で一ばん美しくって、一ばんかなしい景色」

『星の王子さま』の最後には、王子さまがこの地球上に姿を見せ、また姿を消した砂漠の風景を描いた絵が紹介されています。「ぼく」にとって、「この世の中で一ばん美しくって、一ばんかなしい景色」だそうです。そして、この美しくも悲しい物語は、次のような一文で終わっています。

「もし、あなたがたが、いつかアフリカの砂漠を旅行なさるようなことがあったら、すぐ、ここだな、とわかるように、この景色をよく見ておいてください。そして、もし、このところを、お通りになるようでしたら、おねがいですから、おいそぎにならないでください。そして、この星が、ちょうど、あなたがたの頭の上にくるときを、おまちください。そのとき、子どもが、あなたがたのそばにきて、笑って、金色の髪をしていて、なにをきいても、だまりこくっているようでしたら、あなたがたは、ああ、この人だな、と、たしかにお察しがつくでしょう。そうしたら、どうぞ、こんなかなしみにしずんでいるぼくをなぐさめてください。王子さまがもどってきた、と、一刻も早く手紙をかいてください……」

王子さまはイエス・キリストのように復活するのかもしれません。それとも、鈴の音とともに生まれ変わってくるのかもしれません。いずれにしても、『星の王子さま』のラストは、王子さまとの再会への期待にあふれています。

これまで、人類は大切な人の死を受けとめるために、さまざまなファンタジーを生み出してきました。「天国」も「復活」も「生まれ変わり」も「千の風」も「月」もみんなそうです。そして、それらのファンタジーに再会への希望を託してきました。

考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やそのほかの国の言葉でも同様です。

これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、寂しい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。

でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。

いずれにしても、わたしたちは大切な人と必ず再会できるのです。ファンタジーの世界にアンデルセンは初めて「死」を持ち込み、メーテルリンクや賢治は「死後」を持ち込みました。そして、サンテックスことサン=テグジュペリは死後の「再会」を持ち込んだのです。一度、関係をもち、つながった人間同士は、たとえ死が二人を分かつことがあろうとも、必ず再会できるのだという希望が、そして祈りが、この物語には込められています。

『星の王子さま』とは、大いなる「再会」の物語なのです。

わたしたちは、大切な人との再会の日までこの砂漠のような社会で生きていかなくてはなりません。砂漠とは、心なき社会、ハートレス・ソサエティのことなのです。ならば、砂漠に水をやり、きれいなバラを咲かせて、心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティをつくろうではありませんか。

水がなくても心配しなくて大丈夫です。砂漠には、必ず井戸が隠されています。思いやりという水をふんだんにたたえた井戸が隠されています。つまり、わたしたちの社会は心なき社会のように見えるけれども、必ず心ある人々が存在しているのです。

思いやりの井戸、心ある人々がどうしても見つけられないときは、自分で水をつくることができることを思い出してください。そうです、涙を流すのです。悲しいとき、寂しいとき、つらいとき、他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底からの喜びを感じたとき、大いに涙を流してください。アンデルセンがいったように涙は「世界でいちばん小さな海」なのです。

あなたは、自分で小さな海をつくることができるのです。